「TRPGは感動を呼び込めるのか。」というエントリを読んで、ちょっと書こうと思ってた話があったんですが、そしたら紙魚砂氏が「TRPGと感動?:(・_・)」である程度の話について書かれていて。更にもうちょっと書こうと思っていたら、また同じテーマで紙魚砂氏が「TRPGの「目的」:(・_・)」という形で書かれていて。
なんかもう書くことないかと思ったりもしたんですが、言葉を増やすために自分でも書いてみようかと思います。
ページの内容
感動素材、たとえば「悲劇」
ここで指している“感動”が、いったいどんなものを指しているのかで話は違ってきたりもするんですが。
たぶん文脈からすると、いわゆる「感動した」とかそういう、たぶん「涙する」ようなことを指すんだと思います。涙すること、特にそうした機能に特化した演出、「悲劇」の有効性についての話……今回はそう仮定して、話を進めてみることにしましょう。
「悲劇」のゲームシナリオ的性質
あくまで僕個人の感覚なんですが。
シナリオデザイナーが用意した悲劇というのには、二種類あるわけですね。
ひとつは「打倒すべき課題」で、もうひとつは「物語表現上の演出」です。
「打倒すべき課題」としての悲劇
前者は、プレイヤーの努力によって阻止できます。
いわゆる「予想される最悪の結末」というやつで、プレイヤーはそれを阻止するために行動する……というのがゲームにおける英雄的行動で、プレイヤー=PC に求められがちな行動です。
それでもその悲劇が起こってしまったなら、それは PC が阻止に失敗した、ゲームに失敗したという結果です。ですからこの下位に、「ゲームに失敗した結果」としての悲劇があります。
「物語表現上の演出」としての悲劇
後者については、これはもうプレイヤーにはどうしようもない。
たとえばストーリー上、NPC が死ぬことでプレイヤーのモチベーションを喚起し、プレイヤーにその悲劇を起こした張本人を打倒すべき課題として提示する。そのための演出ということになります。
時代劇で言うと、農民が直訴に走って無慈悲に殺されちゃったり、改革を求めた藩士たちの暗殺計画が漏れて皆殺しにされちゃうパターン。遺言や遺品などを遺して憐れみを誘ったり、あるいは遺さないことで覚悟を見せたりします。
さて、感動によって涙する、ということがどちらで発生するかを考えてみると。
たぶんそれは、後者に大きく偏るのではないかと思います。
が、それは置いといてひとまず前者「打倒すべき課題」から考えてみます。
「打倒すべき課題」としての悲劇
さて、悲劇のありようの一つ、「打倒すべき課題」としての悲劇ですが。
こちらはゲーム中、明確にゲームの目的/課題として設定できるようになっています。ですからそれを阻止しなかったのであれば、それはプレイヤーの選択であったり、プレイヤーの失策であったりするわけです。
まあ人にも拠るんでしょうが、“自分の失策によって起こった悲劇”に対して、純粋に「感動的だなァ」とか「なんて酷い!」と涙できる人間というのは、たぶんマイノリティではないかと思います。そういう場合、それよりも失策に対する後悔、「なんで俺はこれを阻止できなかったんだ!」という方へと気持ちが向かうかと思います。
それで“悔し涙を流す”ということはあっても、感動として、美しい「おはなし」として受け止められることは、あまりないように思います。
そんなわけで、こちらのモデルで感動を招く、というのは難しいだろうな……というのが僕なりの結論です。
では次に、「演出としての悲劇」について考えてみましょう。
「演出としての悲劇」に対する姿勢
「物語表現上の演出」としての悲劇というものがあるとして、それに対する、それに接するスタンスというものは、ユーザのポジションによって様々です。
ここではシナリオデザイナー、ゲームマスター、プレイヤーの三者それぞれのスタンスから、シナリオにおける「演出としての悲劇」がどう映るのかを考えてみます。
シナリオデザイナーとして
シナリオデザインを行う上での「演出としての悲劇」は、あくまで物語上の通過点になります。
ここで感情移入をしていれば、泣くこともあるでしょう。
しかし単なる演出として用意されたものであるなら、何の感慨もなく「物語上の事実」として淡々と書くだけのことです。
シナリオを芸術家的に作るか、職人的に作るか、といった差になるでしょうか。
ゲームマスターとして
ゲームマスターにとって、シナリオ上に用意された悲劇というものは、やはり通過点になります。
シナリオデザイナーと同じように、演出として用意されたものと扱うなら、「物語上の事実」として淡々と描くだけになるでしょう。
しかしそれまでの過程で、その悲劇に遭う NPC に対して感情移入してマスタリングを行っていれば、悲劇に行き会ってしまった NPC への想いから涙することも、あるかもしれません。
セッションを行う前に、ゲームマスターはシナリオを通読しています。これはちょっと視点を変えると、セッションにおいてゲームマスターがシナリオ上の出来事を語ることは、すべてそうした「過去の出来事を語る」ことにも似ています。
この視点に立つと、ゲームマスターは「過去の出来事」を語る折に、その話に出てくる人物へ感情移入ができるか? 感動できるか? ということになるでしょう。事前に知っていたネタで再び泣けるか、ということになります。
また他の視点から考えると、シナリオを通読し、実際のプレーをシミュレーションする過程で、シナリオの出来事や登場人物へ感情移入する、“愛着”や“思い入れ”といったものを抱くケースもありえます。
この視点に立てば、自分の PC に悲劇が訪れたプレイヤーと同じように感動する、のかもしれません。
プレイヤーとして
プレイヤーにとって、シナリオ中に発生した悲劇というものは、すべてその場で行き当たった事実ということになります。
被害に遭った NPC に対して何らかの感情移入をしていれば、それについて感動することもあるでしょう。
逆に NPC に特別な感情を持っていないのであれば、それは単なる事実として受け入れられるだけです。
その場で起こった出来事ですから、感情移入のし易さで言えば、ゲームマスターより上であるようにも思います。
……とまぁ、こんな具合で同じ「悲劇」に対しても、接し方というのはスタンスによって異なってくるかな、と。
ちょっとだけ踏み込むと、ゲームマスターは共時的に、プレイヤーは通時的に、それぞれシナリオに接する傾向がある……なんて相違からくる違いでしょうね、これ。
雑感
僕自身は、長いことゲームマスターばっかりやってるせいか、あるいは“依頼を受けて”シナリオを作ることが日常になってるからなのかも分かりませんが、あまりゲーム中の悲劇に対して感動するようなことはありません。
タイミングがズレてしまっている、というのが一番大きいのかも知れません。
並列処理の弊害
ゲームマスターをやっているとき、脳内では最低でも「現在のゲーム状況」と「そのとき取り扱っていないゲーム世界での出来事」、「先々のゲーム展開」の三本の時間軸が併走しています。こうなってくると、たとえゲーム中に悲劇が起こったとしても、それはもう「先々のゲーム展開」の中で構築されていた出来事で、過去の話なんですね。
ですから「先々のゲーム展開」軸で用意している最中に、なんとなく憐憫の情を感じることはあるんですが、その時点では同時に「現在のゲーム状況」軸のマスタリングが続いているわけで、そこで全く関係のない、未来の出来事について感極まって泣いてしまうというのは、プレイヤーを混乱させるだけで、何ら益がない。
……まあ利害で涙するもんでもないわけですが、人間、悲しいことが有っても忙しくしている間は悲しさを忘れてしまうともいいますし、人前で泣くことは恥ずかしいということもあります。まあとにかく、そんな感じで憐憫の情はどこかに封印されてしまいます。
で、実際にその悲劇が「現在のゲーム状況」軸に乗ったところで、封印しちゃった悲しみが出てくるわけでもなく、むしろ淡々と「そらまあ当然でしょ」といった感じでマスタリングを行ってるわけです。
玄兎のスタンス
喜ぶべきかどうか毎回迷うんですが、セッション中のドラマに涙されることが時々あります。表現者としては喜んでいいのかも知れんのですが、同時にどこかで「オヤクソクでしょうに」とか冷めてしまっている自分もいて。
それって感動してくれた人にも失礼というか、なんか偉そうにしているようで気に食わんので、僕はセッション中の悲劇を「演出」として使うのが嫌いになっちゃって。
ですからゲーム中に発生するすべての悲劇は「打倒すべき課題」(または「失敗の結果」)としてのみ存在し、そのためのゲーム環境、メタルールを整備したりしています。
この話についてはまた次の機会、「プレイヤーという英雄」にて。
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