久しぶりに『演劇入門』をざっと通読したんですが。
思うところがあったんで、表面的な部分をまとめておこうということに。
自分のための一つのカメラを設置しただけのことなので、役に立つかは分かりません。
ページの内容
【会話】と【対話】の違い
とりあえず表題になってる【会話】と【対話】の違いについてですが。
これ、そのままだと混乱するんですが、該当する英単語、
- 【会話】 = conversation (カンバセーション)
- 【対話】 = dialogue (ダイアローグ)
に置換すると、少し通りが良くなるかと。
この二つ、主目的が異なる語なんですね。
カンバセーションとは「巧みな座談」とか「談話」といった方向性を持つ語で、その主目的は「コミュニケーションそれ自体を楽しむこと」であったり、「非公式な/親しい関係下でのコミュニケーション」であったりするわけです。
それに対してダイアローグとは「意見交換」とか「向かい合って話をする」といった方向性を持つ語で、その主目的は「自分の意見を主張すること」であったり、「両者の意見のすりあわせ」であったりするわけです。
平田氏の定義 ~ 【会話】と【対話】
演出家・劇作家の平田オリザ氏の著作『演劇入門』で、氏は【会話】を「内輪で交わされる楽しいおしゃべり」、【対話】を「自分とは異なる価値観を持つ他者との交流」ってな感じで定義しています。
- 【会話】 = 内輪で交わされる楽しいおしゃべり
- 【対話】 = 自分とは異なる価値観を持つ他者との交流
平田氏の定義 ~ 演劇(ドラマ)概論
氏は演劇を「ある運命を背負った人が葛藤する姿を描くもの」と定義し、また「演劇とは演者(舞台)と観客とのコミュニケーション」とした上で、「演劇は【対話】技法に則る」としています。
- 演劇の表現対象 = ある運命を背負った人が【葛藤】する姿
- 演劇という技術 = 演者(舞台)と観客のコミュニケーション
- 演劇の要諦 = 演劇は【対話】技法に則る。
私見 ~ 【葛藤】と【対話】
準備完了。
そんではこれから、ちょっと私見を書かせてもらいます。
平田氏の二つの見解、
- 演劇の要諦 = 演劇は【対話】技法に則る。
- 演劇の表現対象 = ある運命を背負った人が【葛藤】する姿
ですが、これらを読み解くには前提として二つの構造を理解する必要があると思います。
一つは「舞台(演者)と観客の関係」、そしてもう一つは「【葛藤】というものの性質」です。
演劇が【対話】を重視する理由 ~ 舞台と観客の関係
まずは前者、「舞台(演者)と観客の関係」ですが。
舞台芸術によって描かれるドラマは、舞台という小さな世界の中で進行します。そしてその小さな世界の中にいる間、演者はその世界の言葉で語り、その世界の原理で行動します。
それに対して、観客は現実世界の住人です。現実世界の言葉で考え、現実世界の原理でそれを観ます。
ここに齟齬が生じます。
もし舞台上の世界が現実世界とあまりに乖離していたら、観客はそのドラマを理解できません。言葉を解さない乳幼児に『ヴェニスの商人』を見せたところで、分かりはしないでしょう。そして舞台演劇の常識として、上演中に観客から分からないところを質問することもできません。
だから舞台芸術は最初から「観客に分かるように」作らなければならないのです。
これが【会話】と【対話】のどちらに属するかと言うと、もちろん後者ということになる。そういうことです。
【葛藤】する姿を描く演劇 ~ 【葛藤】というものの性質
演劇は【葛藤】する姿を描くものだとしたとき、そもそも【葛藤】とは何で、何故発生するのでしょうか?
試しに辞書を引いてみると、
〔もつれ合う葛(かずら)や藤の意から〕
- 人と人とが譲ることなく対立すること。争い。もつれ。
- 〔心〕 心の中に相反する欲求が同時に起こり、そのどちらを選ぶか迷うこと。コンフリクト。
- 禅宗で、解きがたい語句・公案、また問答工夫の意。
とあります。
まあ、とりあえず [3] は除外してもいいでしょう。
(演劇は特に禅宗に属する、といったものではありませんし)
とすると [1] と [2] が、演劇に関係する【葛藤】の一般的性質ということになります。
ところでこの二つ、[1]、[2] とも「価値観の対立」という線を引いてみると、[1] は「二人以上の人間が、各自の価値観を第一として譲らないために生じる対立」であり、[2] は「一人の人間の内面で、複数の価値観に優先順位がつけられずに生じる対立」とすることが出来るかと思います。
としたとき演劇の表現対象は、
- 演劇の表現対象 = ある運命を背負った人が[価値観を対立させる]姿
と考えて良いでしょう。
観客の感動と【葛藤】の構造
演劇によるコミュニケーションで、舞台が観客に伝えたいものは何かというと、それが「感動」だということについては異論はないと思います。
で、演劇によって観客が得る感動についてなんですが。
演劇が描くものが「人の【葛藤】する姿」であるとき、ただ【葛藤】する姿だけ見ていても仕方がないわけで、もちろんそこには終わりが存在します。【葛藤】の終わり、つまり解決です。
演劇が描く解決には、大別して二種類あります。
一つは断絶による解決であり、もう一つは突破による解決です。
俗に悲劇とされる、死をもって解決とする物語の中には前者のものが多く見られます。悲劇によって得られる感動は「カタルシス(浄化)」と呼ばれ、ある種のストレス発散の志向性を持ちます。
それに対して突破による解決はバリエーションに富んでいます。が、どういったバリエーションであれ、【葛藤】と、それを踏破するという構造は、その人の変化、それも良い変化であることがほとんどです。(悪い変化である場合、九分九厘、その後に真の解決としての悲劇が待っています)
ある個人が良い方向へと変化することを「成長」と呼びます。
そう考えると、悲劇に属さない演劇はすべて成長物語である――と言うことも出来るかと思います。
(ここにたどり着くまでに、いくつかの条件設定があることを忘れないでください)
ところで。
この「良い方向への変化」は、実のところ舞台の主役たちにだけ訪れるものではありません。
たとえば面白い映画を見た後、なんとなくスッキリしたり、気持ちを一新して活力を取り戻したり、大切な人を想ったりすることがあるかと思います。それも「良い方向への変化」と言えるのではないかと。
そうした「良い方向への変化」が見られる作品は、ほとんどが「感情移入できる」という性質があります。感情移入し、応援し、一緒に悲しみ、一緒に憤る。そうして観客も一緒に【葛藤】した上で、最後に解決される。そういう意味では悲劇もそうでないものも、同じように観客の成長を促してくれます。
誰だったか「名作は心の贅肉を落としてくれる」という言葉を思い出します。
演劇が【会話】でない理由 ~ 【葛藤】の所在
演劇が【会話】ではなく【対話】とされる理由は、上記のような【葛藤】の性質とその所在にあると考えられます。
【会話】の定義「内輪で交わされる楽しいおしゃべり」について考えてみると、この“内輪”っていうのは「価値観を共有してる関係」ではないかと考えます。
であるなら【葛藤】は生じない。
【葛藤】は価値観が対立したときに生じるものである以上、価値観が対立しない【会話】の中には【葛藤】が生じないことになります。演劇が【葛藤】をテーマとするならば、【会話】が演劇に不適切な手法であることも道理となります。
まとめというか、ヒントというか
ドラマを描こうとしたとき、ドラマの主人公たちが【葛藤】と対峙し、それを解決することはごくごく常識的な(ともすれば典型的すぎて飽きられがちな)構造なわけですが、それと並行してちゃんとお客さんにも【葛藤】が生じるように描けていれば、強固な構造はちゃんとお客さんに成長の快感を与えられるモノになりますよ、と。
正直、商業的には書くことよりも読んでもらうハードルの方が高いんだけどねー(笑)