(T)RPG 作る時、必ずメインデザイナーの名前がドンと出る。
それはまあ看板として有用で、そこからゲームの傾向を察することも出来るんだけど、他のゲームで評判を落とした人が再起するのは難しくなる。
そのゲームが会心の作だったりするともう、目も当てられない。
僕自身もそうだけど、「○○のゲームは××だから」と偏見の食わず嫌いが出来てしまうと、もう手を付けなくなる人が多いんじゃないかと思う。少なくとも知ってる多くのゲーマーには、そういう傾向がある。
そもそも日本人は、一人のカリスマに下駄を預けすぎる気がする。
それは様々な場面で目にすることが出来るけど、とりあえず今は創作の世界の話をしよう。
芸術的才能による個人制作っていうのは、一つの手法に過ぎない。
もっと多人数が寄り集まって、看板が制作チームでもいいと思う。
一人の人間の才能なんて、最初から限られてるんだから。
SNE にせよ F.E.A.R. にせよ、どうも個人作家に依存しすぎじゃなかろうか。
一つの作品を、みんなで書き散らしても良いじゃんか、と。
それも一つの手法としてアリなんじゃないかね?
もちろん著作・原案の管理しないと収益出せないわけで、その辺はきっちり管理すべきだけど。同社内でやるならいいじゃない。プロジェクト組んでさ。
ゲームのプレイングにしても、手法はいろいろある。
(T)RPG は(ゲーム設定それ自体がベクトルを持っている場合はあるけど)基本的に遊び方の自由なゲームでしょう。そういうことを例示していった方がユーザの創造力は広がるんじゃなかろうかね?
少なくとも SW では「俺は山本風のが好き」とか「清松 SW がいいなァ」とか、最近だと「へっぽこ派」「ぺらぺら派」みたいな流れがある。「サーラが好き」とか「混沌はどうした」とかいう話も(笑)
同じ SW だけど、ユーザの好みは違って、でもどっちのユーザも SW を遊ぶ。
その方が裾野が広がって、商売にも良いんじゃなかろうかと思うんだけども。
ゲームのマイナーバージョンアップ(修正)を進めて、メジャーバージョンの上がった新商品(改版)を出す、というのは商売として成立するでしょう。
(T)RPG はコンピュータのアプリケーションに似ていて、どんな名作でも使い込めば不満が出てくる。そこを補う拡張パッチをちょこちょこ当てながら、ユーザがアプリケーションに馴染んでしまえばこっちのもの。で、あとは新機能を追加してデータの再調整を行った改版を出しても、顧客は相応に追いかけてくる。
商売が全く同じように展開できるわけではないけど、特定ゲームに愛着を持つ人間にしてみれば、丁寧に扱ってくれてる方がメーカーを信頼できるというか、単純に嬉しい。
話はちょっと戻るけど、これ(改版)をやるためにもチーム単位は良い。
クリエイター、デザイナーって人種の特性として、一冊できあがった時点で燃え尽きシンドロームに陥りやすい。
一作品を作り上げる過程には、楽しいものも苦しいものもある。
ものすごいエネルギーを必要とする作業だけに、一回終わると動けなくなる。
個人の中で、その作品が終わってしまう。
まったく個人のエネルギーには限りがある。
ところがチーム単位で制作すると、絶対どこかに不満が残る。
押し退けられるアイディアは絶対にある。
発言されなかったアイディアでもいい。
メインストリームが燃え尽きている間に、そこに入れなかった別のアイディアが熟成していく。
次回作を作るだけのエネルギーに、変換される。
チーム単位にすれば、エネルギープラントが全滅することは滅多に無い。
もちろん、チーム運営のための労力というのもあるから、エネルギーが全て制作に向かうわけじゃない。エネルギーロスはある。それを嫌うなら芸術的個人創作に勤しめばいいんだけど、そこにはおのずと限界があることを自覚したほうがいい。
自信は大切なものだけど、過信は逆効果だ。
……ということで、結局のところ、これは自戒の話だったりします。