どーも「セッション=みんなで一つの物語を作る場」という言葉がウソに思えて仕方がない……というかウソだと思ってる。
という話を、またまた例によって Tweet しようとしたら長くなったのでコッチに……書こうと思ったけど面倒になって投げ出した(笑)
でもまあ一応、書いておこうかなということで。
リテイク。
ちゃんと書いてみる
テーブルトークRPGを「一つの物語を作り出す遊び」だとする話はよく有って。
で、これに対して「そうじゃない、一つの物語が出来上がる遊びだ」って意見もまたよく有って。
実際、試しに Twitter で冒頭の文を Tweet してみたんですが、その際には「“作るもの”ではなく“できるもの”」という反応をいただきまして。
ゴメンナサイ。
そもそも焦点の違う話でした。
で、ソコじゃなかったらどこなのかというと。
ソコじゃなくて、今回は「一つの物語」ってところに焦点を当ててる。
ちょっと乱暴に言えば、「出来上がる物語は一つじゃねーだろ」って話。
定義文、入りまーす
これ、まず「物語って何ぞや?」みたいな話が必要なわけ。
そうしないと「一つの物語」ってのがブレちゃうから。
なにが「物語」なのか? ってのが分からないと始まらないのね。
で。
今回は「物語」について、以下のように定義します。
define
【物語】 = ある物事の始まりから終わりを観測したもの。
多分この時点で言わんとすることが分かっちゃう方も、いると思うんですが。
つまるところ――
「観測者によって物語は変わる」
――という話です。
観測者ってのは TRPG のセッションの場合はもちろん、参加者です。
まあ「参加せず観戦してる人」ってのがいた場合は、その人も含みますが。
ちょっとその、夢のない話ではあるんですけどね。
一緒にセッションを楽しんだ人たちの間ですら、まったく同じ物語というものは共有できません。
だけどこれ、マルチゲームであれば当然なんです。
何故かというと、ゲームの状況を観測する視点が違うから。
「感情移入」によって分かたれる道
これはひとつに PC への感情移入というものがあります。
そのゲームのストーリーシナリオの出来が良いほど、それぞれのプレイヤーが担当する PC にとって「重要視される要素」と「そうでない要素」の線引きが発生します。
典型的な協力ゲームのストーリーシナリオには「PC間の利害の一致」がありますが、その中でも PC の個性を際立たせるため、個々の PC に独立した目的を与えるテクニックがあります。
それを活用すればするほど、それぞれのプレイヤーの中の「重要視される要素」と「そうでない要素」というのが際立っていくこととなり、これがゲームの状況、ひいては物語に対する視点のズレを発生させます。
ゲームプレイヤーとして分かたれる道
それからマルチゲームとして、プレイヤーがそれぞれゲームに介入するためのスキル (([スキル] = ゲームの状況に介入するための能力。主にゲームのルールで規定される。))が異なる、ということもあります。
「自分の PC に何が出来るのか?」とか「何を利用してどう介入するのが目的達成のために効果的か?」という視点で、語られるゲームの状況を観測していると、これは PC 毎の能力(役割・ロール)が異なるわけですから、当然そこでも「重要視される要素」と「そうでない要素」という線引きが発生します。
そうして物語の受け止め方が、一人一人の中で少しずつ分かれていきます。
プラットフォームによって分かたれる道
また、純粋に言語表現の限界というものもあります。
TRPG ではゲームの舞台となる仮想世界について、会話やミニチュア等によって表現します。
でも会話やミニチュアによる表現には限界があるわけです。
そうした限界に対して、参加者は想像力で補填します。
この想像力を更に補佐するものとして、全く別の、しかし類似したテクストを引用する……というテクニックがあります。(これを間テクスト性とかハイパーリンクとか言うそうですが、正確なところはよく分からんので詳しい人に投げます)
で、よく似たシチュエーションを引用して「あんな感じ」と想像したとして……
でもコレでも結局、前述の二つの理由からズレちゃうんですね。
引用したテクストから未来を予測し、予測した未来に対して「PCとして」「プレイヤーとして」の判断を絡めちゃうから。
結局、少しずつズレていく。
「美しい物語」を描く方法
でもまあ、そんなの当たり前の話なんですよね。
相互に語り合う、連歌のような TRPG の特異性がそれを強めているとは思います。
でも、そうでなくても「出来事をどう観測するのか?」というのは、一人一人が違って当たり前。
同じ映画を見たのに、話し合ってみれば感想が違っていた……なんて、よく有ることでしょう?
それはとても当たり前のこと。
当たり前なのに、時にそれを忘れてしまう。
……というのが TRPG におけるトラブルの原因に一つじゃなかろーかと思ってるわけです。
何故に忘れてしまうかといえば。
直截にいって、自我が肥大化しちゃうからですわ。
分かってもらいたい気持ちが大きくなりすぎて、自分自身にも支えられなくなって、溢れかえって散らかってしまう。
あるいは「一つの物語を作る遊び」という言葉を真に受けてしまった初心者さんが、参加者の誰もが等しく観測できないとイカンのかと誤認して、あれやこれやと要らんことをし始めてしまったりする。
これまでの初心者対応の経験の中でも、初心者さんが自分の観測している物語とのズレを見つけた時、義憤だか私憤だか分からない感情を爆発させてしまったり、思いっきり落胆してしまったりする……というケースが何度か見られました。
そうなっちゃうと、「自分が(またはPCが)何故そう“したい”のか」を滔々と語り、我を通そうとする。
他の参加者はポカーンです。
放心状態になり、パニックに陥り、とりあえず状況の改善に脳味噌をフル回転させ……ゲームの事を忘れてしまう。
「提案」なら別に構わないんだけどね
これ、「提案」って形でやってくれたら別に問題ないんですね。
そこで参加者たちは、自分がこれまで観測してきた物語と、別の(ちょっとだけ自分のものとズレた)物語を下地にした展望とのすり合わせを行なって、大丈夫そうなら採用するし、無理筋なら却下する。
提案というのはあくまで「案の提示」であって決定ではありません。
そこで却下されたなら、諦めて違うルートを模索する。
そういう約束の下で、提案をするのであれば、これは何の問題もないと思います。
こうした提案の作法については、『ダブルクロス The 3rd Edition ルールブック2』のプレイングテクニック(p.38~41)及びプレイングマナー(p.42~43)で丁寧に提示されています。
もう一つの「物語」の描き方
それでも自分の観測する物語を増大したい、広めたいと思ったら、別の方法があります。
それが「感想戦で語る」という方法です。
セッションを終えた後、あるいは終えるまでの間に、自分が観測していた物語について脚色を行います。
そこで自分が観測してきた物語と、その中で自分(またはPC)の立ち回りについて整合性をつけ、新しいもう一つの物語を作っちゃう。
そうして後からコッソリと、秘密の小話を披露する。
言ってしまえば後出しジャンケンです(笑)
ここで過剰に美化してしまうと、まずドン引きか、生暖かい半笑いで応えられてしまうと思います(笑)
ですから話を盛る――脚色する――のはなるべくピンポイントに、あるシーンにおける感情や意図、それだけにしておくこと。
そうすることで、話を聞いた他の参加者(物語の観測者)は自分が観測してきた物語にちょっとした「修正」を加えてくれます。
そうした加筆修正が物語の様相がガラリと一変してしまう……ということは、物語が好きな人、特に「深読み」が好きな人ならご存知のことと思います。
もし「ひとつの物語を作る」という作業が行われるとすれば、それはゲーム中ではなく、むしろそれが終わった後の話だと思う次第です。
とっても大事な「秘密の小話」
ところでこの「感想戦で交わされる秘密の小話」なんですが。
これ相当重要なテクニックでして。
要するにこれって「こういう活躍がしたいぞ」という「遠回しな要求」なんですね。
カジュアルで上手いゲームマスターってのは、大概こういう「遠回しな要求」を拾って次のセッションで活用します。
貴方も活躍できるようになるし、ゲームマスターもシナリオ作りに悩まなくて済むようになる。
素晴らしきかな Win-Win の関係(笑)
だからどんどん話していった方が良い。
また、これは逆に相互理解のテクニックとしても利用されます。
他の参加者から、「あのシーンで○○したのは、××狙いとか?」みたいな感じで質問する。
それが正解かどうかというのは、あんまり関係ないんですね。
ただ「ああいうシーンで○○すると、この人には××狙いに見えるのか」っていう、一つのサンプルになる。
最初は分からないんだけど、何度かやってる間にパターンがその心身に蓄積されていくってのは、あるんですね。
特に初心者さん/新人さんを相手にするときは、率先して「具体的に高く評価する」というアプローチをすると効果的です。
そうして次に同じようなシチュエーションを提示すれば、同じように(ちょっと盛って)返してくれる。
そうやって成功体験を積み重ねていけば、ほらもう立派な TRPG ジャンキーの出来上がりだ(笑)
つまるところ、この話って
そう。
この話って構造論ではなく、実は倫理や学習の話だったんです。
わはは。
最初は自分でも、ここに着地すると思ってませんでした。
リテイク前は、けっこう毒まみれな話だったんですけどねー(笑)
でもまあ上手いトコロに着地できたんじゃないかと思います。
構造を分解してみれば、そこにはちゃんと意味があると思うんですよ。
トラディショナルな遊び方というのにも、それなりの理由があって、意味がある。
まあオッサンの戯言でも構いませんが、こういう見方もあるんだという話。
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